宿の人から鶴ヶ城へ行くには西若松の駅からが近いですよ、と聞いておいたのでそこで下車、マップを見たら本当に近そうなので、歩いてゆくことにした。
暖かい日だったので汗をかくほどだったが、城内にはまだ梅が3分咲きと言ったところだった。
この「廊下橋」は東(三の丸)より入る鶴ヶ城への入り口にある橋。敵が攻めてきた際には、切り落とすことができたといい、兵の移動などが見えないようにするため、屋根などがかかっていたので、この名で呼ばれている。

戊辰の戦役で篭城一ヶ月「鶴ヶ城」は落ちなかったという。これから、今放映中のHNKの大河ドラマの舞台ともなるのだろうか。陸軍省の命令により取り壊されたのは、明治七年、現在の天守閣が再建されたのは、昭和40年とのこと。



天守閣の展望台からの眺め。中央が会津磐梯山。右端、紅白の細いアンテナ風の向こうが、飯盛山。手前の町並みは会津23万石の城下です。



天守閣から西の方角を望む。会津盆地を囲んでいるのが、2千メートル級の山々がつらなる『飯豊連峰(いいでれんぽう)』夏でも雪が残ると言うこの山は、まだ雪で真っ白だった。



茶室 麟閣(りんかく)

天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられ、。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の鶴ヶ城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、千家の再興を願いでたのだそうです。この恩義に報い少庵が建てたのがこの「麟閣」。その結果、少庵は許され、京都へ帰り千家を再興することが出来たとのこと。

鶴ヶ城の本丸に通じる表門 で、扉や柱等が鉄板で覆われている為、「鉄門」の名で呼ばれている。戊辰戦争の時は、この門が堅牢な門であることから、藩主はここで指揮にあたったといわれているとのこと。


会津若松の観光はここだけで終わり、タクシーで駅近くの蕎麦屋まで送ってもらった。
会津名物の蕎麦は美味しかった。
午後1時過ぎの只見線の発車まで、また、駅構内のお土産やさんをうろうろ。